SHIRIN

AEOがもたらす身心変容

覚醒からAEO体得の過程で経験するのは、既成概念を覆すオーガズム体験だけではない。身体全体の基調が変わり、それに伴って心のあり方も変容する。快感が恒常的に作動し始めることで、世界の見え方、感じ方そのものが組み替わっていく。

まず身体が変わり、その身体性に同調して心も無理なく変化していく。身心が調律的に変容すれば、日常の行為やそれを決める判断も変わる。乗り物が変われば、運転の仕方も感じ方も変わるのは道理である。

身体の変容

表皮のモワモワ感

覚醒の直後から、身体全体の表皮を覆う独特の感覚が生じる。微弱な電流が常に身体全体を覆っているとでも表現すべき状態であり、異常ではあるが決して不快な感覚ではなく、普通の身体では感じることができない心地よさである。

この感覚は一過性のものではなく、継続的に感じられ、むしろ時間とともに強くなっていく。内因性オピオイドやエンドカンナビノイドが、覚醒後は基底的に分泌され続けているからではないかと推測されている。

全身の脱力

覚醒直後から全身の驚異的な脱力が起こる。覚醒以前の瞑想では常に姿勢が気になり全身のバランスを調整し続けていたものが、余計な力が入らなくなり楽に1時間でも2時間でも座っていられるようになる。瞑想以外の日常的な行動に関しても、無駄な力が抜けることで、異常と言っても過言ではないほどの落ち着きを手にするだろう。

この脱力はスポーツや格闘技においても顕著に現れる。尸林で覚醒を遂げたある人物は、覚醒直後の柔術のスパーリングで、仲間から驚かれるほどの身体の使い方をし、またある人物は、テニスのサーブが驚くほど上達したと周囲から驚かれた。通常の身体で行う脱力を超えた脱力が、覚醒後は意図せずとも生じるようになる。

心の変容

身体が常に淡い快感で包まれていると、思考や感情もその快に自然と同調する。心の変容は身体の変容のあとに続いて自然となされていく。

穏やかさ(情動の変化)

AEO体得者にとって穏やかさは、意志や努力の産物ではない。身体の基調として常に気持ちいいため、怒りや不安の立ち上がりは自動的に減衰していく。感情が安定しないのは、身体が不快だからであるが、身体が常に「気持ちいい」状態でいると、心もそれに同調するのは当たり前のことである。

AEO体得者は内側へ注意を向けるだけで、いつでもAEOを最大強度まで立ち上げられる。この「いつでも戻れる」保証が、不要な情動への追従を止め、心に余白を生むのである。

世界が穏やかになる(認知の変化)

心地よさによって心に余白ができると、世界は穏やかに見え始める。世界そのものが変わるのではなく、こちら側の見え方と反応が変わる。身体の動きが少なくなり、視線のせわしない移動が減ると、目の前にあるものの密度、解像度が増す。

外界の刺激はAEOのトリガーとして身体に取り込まれるようになり、きれいな景色や誰かの言葉に心が動けば、そのまま強烈なAEOへとつながる。刺激の選別と認知の裁量が自分の手に戻ることで、世界は穏やかに感じられるようになる。人生の主導権が、自分に戻るのである。

満ちているから要らない(関係性の変化)

AEOは「足るを知る」を身体で知る。AEOの学習と実践を最大化するために、関わる対象を選別し距離を設計する。基準はただひとつ。「AEOの理解と技術の向上に資するかどうか?」。資するものへ近づき、そうでないものとは自然と離れる。

AEOに熟達するほど、欲望の構造そのものが組み替わっていく。AEOのオーガズムは性欲・食欲・物欲を凌駕し、持続的で耐性もなく、いつでもコストをかけずに再現可能であるため、外界の刺激で積極的に欲望を満たす必要がなくなる。ただし、この変化は禁欲的なものではなく、抑圧でもなく、「満ちているから要らない」という状態である。世間ではこれを「悟り」などというのかもしれないが、AEO体得者においては当たり前の状態である。

環境との関係の変化

AEOを体得すると、同じ環境にいるのに、まるで別の場所にいるかのように感じるようになる。これは環境が変わるのではなく、身体の受け取り方が変わるのだ。

たとえば、朝のコーヒーの湯気が香りとともに頬にかかる。以前なら何とも思わなかった、その微かな温もりと香りが、身体の内側に強烈なAEOを呼び起こす。散歩の途中に風が吹けば、肌が風を受け取る感触そのものがAEOの入口になる。雨音、電車の振動、子供の笑顔——日常のありとあらゆる刺激が、身体を通じて強烈なオーガズムへと変換されるようになる。

これは気の持ちようではなく、神経系の変化がもたらす現象である。覚醒後の身体は、外界の刺激に対する感受性が根本的に変わっている。かつては「なんでもない」ものだった刺激が、覚醒後はオーガズムを立ち上げるスイッチとして機能するようになる。世界は何も変わっていないのに、身体が世界を受け取り直すことで、日常がまったく別の体験になるのである。